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百済の歴史

ソンパ(松坡)紹介 >歴史>百済の歴史
(BC18〜660:678年間)高句麗の南下を避け、百済は都を漢城から熊津、泗泚へと移した。
漢城時代(BC18〜475)百済がハンガン流域に都を定めた時期(百済前期)
漢城時代とは、百済が建国された時から高句麗の長寿王の侵略により蓋鹵王が戦死した時までを指す。つまり、慰礼城が都だった時期である。
百済は、古爾王(234〜286)代になって積極的に征服事業を遂行し、領土を拡大した。さらに、律令を頒布して、階級の服色を制定するなど、古代国家としての体制を整えた。
百済は、近肖古王(346〜365)代になって飛躍的な発展を遂げた。近肖古王は、当時の代表的な貴族勢力である真(チン)氏出身の女性を后として迎え、自らの王権を確立した。王権強化に成功した近肖古王は、地方統治組織として檐魯制を実施し、対外的には活発な征服活動を行った。残っていた馬韓の勢力を吸収し、ヨンサンガン(栄山江)流域まで支配権を拡大し、ナクトンガン(洛東江)流域の伽耶(カヤ)地域まで、その影響圏に組み込んだ。さらに、日本の九州地方と中国の遼西・山東半島まで進出し、中国内における百済の拠点を確保した。また、玄菟郡が無くなった隙を狙い、イェソンガン(礼成江)流域の支配権をめぐって高句麗軍とピョンヤン(平壌)城で戦い、故国原王を戦死させた。それにより、今のファンヘド(黃海道)ナムゲ(南渓)付近まで進出するなど、国力を四方に広めた。さらに、近肖古王は、活発な海上貿易を展開し、遼西地方に貿易基地として百済郡を設置した。また、日本列島へも進出し、韓半島を中心に中国と日本を結ぶ商業圏を形成することにより、百済文化を日本に伝えた。当時、日本に七支刀を伝えたという事実は、近肖古王時代の強大な国力の傍証である。
沈流王時代には、仏教を公認することにより、王権と中央集権を思想的に支えた。しかし、沈流王が亡くなった後、王権が弱体化し、貴族たちの勢力が大きくなった。また阿莘王と腆支王が王位を巡って解(ヘ)氏勢力と真(チン)氏勢力が戦ったため、弱体化した百済は、高句麗の広開土王の南下政策により、漢城の58の城と700以上の村落を失った。 このような状況下で即位した蓋鹵王は、失墜した王権を取り戻すため、大々的な土木事業と、活発な対中外交を展開したが、貴族たちの反発と、高句麗軍の攻撃により、漢城が陥落し、王も戦死した。 これにより、百済は熊津への遷都を余儀なくされた。それ以降の時代を熊津時代という。
熊津時代(475〜538)コンジュ(公州)に都を定めた時期(百済中期)
熊津時代は高句麗の長寿王に侵略され蓋鹵王が戦死した時(475年)から、聖王が百済の復興を目指し首都を泗泚に移した538年までの期間を指す。
高句麗の長寿王が漢城を攻撃すると、蓋鹵王の息子である文周王子が新羅に助けを求めに行って、1万人の救援軍を率いて戻ってきた時は、すでに漢城が落城し、蓋鹵王が戦死した後だった。首都陥落と王の死という悲劇の後の遷都であったために、百済は一時期、困窮状態が続いた。
熊津に遷都した文周王代には、百済を再建させるために尽くしたが、遷都後、国内外の環境のため、不安定な状況が続いた。その一つは、漢城から南下してきた貴族たちが分裂し、国政を握っていた兵官佐平・解仇が文周王を殺害した。王位を継いだ三斤王も、貴族たちの政争により、わずか3年で退位を余儀なくされ、東城王が即位したが、このような状況で王権を確立することはできない。さらに、西海(黄海)の制海権を高句麗が握るようになり、伽耶が勢力圏から離脱したので、百済は国際的に孤立せざるを得ない状態となった。このような状況下で、東城王(479〜501)は、新羅の炤知王と婚姻同盟を締結し、高句麗に対抗した。対外的には、南済と交流を再開し、国際的な孤立状態から抜け出すことができた。しかし、東城王も殺されてしまい、その後を、武寧王が継いだ。「苩加の乱」の平定した武寧王(501〜523)は、高句麗の軍事的な圧力を退け、王権の強化に努めた。このため、対内的には、地方の22擔魯に王族を派遣し、地方に対する支配力を強化すると同時に、中国の梁と外交関係を結び、国際舞台で百済の地位を高めた。武寧王は高句麗に奪われたハンガン流域における経済的利益を外で補填させるため、伽耶地域への進出を積極的に進めると同時に、流浪者が故郷に帰って農業に従事するように政策を行い、生産力の増大と農民生活の安定を図った。このような東城王と武寧王の努力により、百済は再び復興の土台を築くことができた。
泗泚時代(538〜660)夫余に都を定めた時代(百済末期)
泗泚時代とは、聖王16年に泗泚に遷都して以来、百済が滅亡するまでの時をいう。 武寧王に続き、王位に継いだ聖王(523〜554)は、東城王と武寧が成し遂げた安定を基盤に百済の復興と王権強化を成し遂げるため、泗泚に遷都した。泗泚に都を移した後、聖王は、国号を百済から南夫余に改称し、高句麗と同様、夫余の系統であることを強調した。聖王は、南夫余の制度を整え、16官等制と22部制など、中央官制と地方統治組織を整備し、統治力を強化した。同時にイクサン(益山)の弥勒寺の建立など仏教振興策をとり、王権強化に努める一方、中国南朝と倭との友好関係を強固なものにした。聖王は、強力になった国力に基づき、高句麗から奪われたハンガン流域を取り戻すため、新羅の振興王と連合して高句麗を攻撃した。当時、高句麗は西北からの突厥の脅威と貴族勢力の内紛のため、ハンガン流域を防御できる状況ではなかったため、百済と新羅はそれぞれ、ハンガン下流と上流の占領に成功した。しかし高句麗と密かに手を組んだ新羅は、百済が占めたハンガンの下流地域を侵略し、これに激怒した聖王は、貴族たちの阻止にもかかわらず新羅を攻撃し、クァンサン(管山)城の戦いで戦死してしまった(羅済同盟の決裂)。
この後、威徳王が即位したが、再び貴族たちの勢力が強くなり、王権が弱かったため、貴族中心の政治体制である6佐平制が実施された。王権の復権を図った武王(600〜641)は、新羅に対する攻撃を敢行し、イクサン(益山)への遷都のための王宮と帝石寺の建設、巨大な弥勒寺の創建などを行った。これにより国力が回復し、王権が確立するとともに、新しい復興の気運が高まったが、益山への遷都は結局実現できず、その計画は挫折してしまう。その後を継いだ義慈王(641〜660)は、新羅への攻撃に熱中した余り、国際関係を粗末にし、国力を消耗した結果、政治的・社会的孤立を深め、百済は滅亡することになる。

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